株式会社オリーゼ本舗

誕生物語

誕生物語

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第一章 日本古来の食文化
――― 発酵

「発酵」という言葉は、ブドウの果汁がぶくぶくと泡を出して、お湯が沸くような様子を見せたあと、やがてそれが酒となったり、また小麦粉にパン種を加えて水でこねた生地が膨らんでパンとなったりする現象から生まれた言葉です。英語で「発酵」はfermentation(ファーメンテーション)ですが、語源は「沸く」というラテン語のfervere(フェルウェーレ)から来ているそうです。昔の人は、発酵という不思議な作用で物質が別の美味しいものに変化するのは神様の力だと信じていました。

日本でも、奈良時代初期に書かれた日本最古の歴史書「古事記」の中に、米を噛んで酒を造った「口噛み酒」の記述があります。唾液中のアミラーゼはでんぷんを分解する力をもっています。つまり神話の時代から唾液と米を噛みあわせて寝かせておくと酒ができること、「発酵」という神秘的な力を認識して利用していたわけです。

「発酵」という現象は、カビや酵母、細菌酵素によって起こるということが科学的に解明されるようになったのはごく最近のことです。それでもすべてが明らかになったわけではありません。というのも「発酵」は、日々ダイナミックに変化しつづける生命現象、多様な酵素同士が有機的に関連しあい、相互に作用しあって維持している生命そのものでもあるからです。

しかし、難しい話は研究者にまかせておきましょう。私たちは、分子構造などを暗記しなくても、昔から受け継いできた食生活の知恵として「発酵」食品の美味しさを知っています。それは毎日の食卓に欠かせない「ふつうの食品」として、いつも私たちの身近にあります。たとえば、日本酒やみそ、しょうゆ、納豆、ぬか漬け…。

これらの食品は、いずれも「発酵作用」を利用した「醸造」という製法で造られています。米や麦、大豆などの原料から、清酒やみそ、しょうゆを造るには、原料を蒸すなどして加工し、麹や酵母を作用させる「発酵」のプロセスを経なければなりません。発酵することで食品は劇的に変化し、まったく別のものに生まれ変わります。

そして食品を「発酵」させるために欠かせないのが「麹」「酵母」「乳酸菌」なのです。日本酒やみそ造りに欠かせない「麹」は、空中に浮遊している麹菌を、蒸した米や小麦に作用させて作ります。麹は、コウジ酸、グルコン酸などの有機酸を生成し、またアミラーゼ、マルターゼ、セルラーゼ、その他のタンパク質分解酵素を生成します。このうち、でんぷんを分解するアミラーゼの働きを利用して用途別の「麹」を作りだし、清酒、甘酒、みそ、しょうゆなどを造ります。

「酵母」は、糖分をアルコールと炭酸ガスに分解する働きをもっています。酒造りの過程で、液面に泡がぶくぶく生じるのは、酵母が炭酸ガスを発生させているからですが、酵母は1種類だけではなく、酒の種類によって清酒酵母、ビール酵母、ブドウ酒酵母などがあります。パン作りに欠かせないイーストはパン酵母です。

 もう一つ、忘れてならないのが乳酸発酵。「乳酸菌」は、糖分に作用して乳酸を造りだします。ヨーグルトなどに含まれる動物性乳酸菌のほか、みそ、しょうゆ、キムチなどに含まれる植物性乳酸菌があります。腸内の善玉菌である乳酸菌も同じ作用をします。

 食べ物を美味しくする力と、発酵による分解で体に吸収しやすくする力を持った「麹」「酵母」「乳酸菌」は、健康づくりにとっても、まさに最強の組み合わせ。私たちは、62年前に創業したときからこの日本の発酵文化と酵素学に注目、『オリーゼ』を誕生させたのです。

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第二章 『オリーゼ』が生まれるまで
其の一

『オリーゼ』を生みだしたのは当社の創業者である私の父、大場八治です。

父は佐賀県鏡山ふもとの庄屋の家に生まれました。6人兄弟の三男です。しかし祖父は家土地田畑をすべて失います。明日は稲刈りという日に役所の方がやってきて差し押さえの赤紙を貼っていったのだそうです。それにより生きる活力を失くした祖父は他界し、祖母はすでに亡くなっておりましたので、年端もいかない6人の子どもたちだけが残されました。食べていけませんから、小学校に上がるのと同時に父は農家に奉公に出されました。口減らしです。勉強したくても、ろくに学校にも通えず、野良仕事に追われる毎日でしたが、15歳で一大決心をして大阪に出ます。もちろん「発酵」の「は」の字も知りません。そんな父が、いかにして「発酵」を学び、『オリーゼ』を作りだすに至ったのか。それを語るために創業者の人となりについて少しご紹介したいと思います。

頼る者もいない大阪に飛び出した父は、少年時代とはうって変わって、当時、浪花の浪曲界で活躍していた筑波武蔵のもとに入門しました。

オリーゼ本舗 創業者 大場 八治 (大宮 歌右エ門)
オリーゼ本舗 創業者 大場 八治 (大宮 歌右エ門)

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第二章 『オリーゼ』が生まれるまで
其の二

 浪曲というのは、歴史的に三つの段階に分けられるのだそうです。第1期は江戸中期から明治初年までの「チョンガレ」と呼ばれる時代。第2期は明治期から大正末までの「浪花節」隆盛時代。第3期がラジオ放送が始まって「浪曲」と改称した昭和の時代です。昭和7年のラジオ番組人気調査によると、1位が浪花節(浪曲)で全体の57%を占めたそうです。2位は講談。以下、落語、人情話、民謡と続きます。

大正3年生まれの父が大阪に出たのは15歳のときですから昭和初めのちょうどこのころ、浪曲全盛時代でありました。父は筑波武蔵のもとで修業を重ね、「小武蔵」の名で舞台に立つようになります。「小武蔵」となってからは、自分で「マハトマ・ガンジー伝」や「親鸞聖人伝」などのオリジナル台本を書き、義侠物、戦記物、人情物が多い浪曲界の中で〝文芸浪曲〟という新境地を開いております。

父の自慢話をいつも面白がって聞いていた私ですが、のちに大阪まで出かけたとき、大阪時代の父の知人に話を聞いたことがあります。父の自慢や思い出話は本当でした。

〝文芸浪曲〟は意外なほど評判をよび、父が舞台に立つ日は多くの客が集まったそうです。

大阪という土地柄と浪曲界がよほど肌に合ったのか、大阪時代の父はいきいきと輝いていた。革の半靴(ブーツ)で道頓堀や通天閣界わいを闊歩していたらしい。義理人情に厚く、度胸もあった。麻酔なしで盲腸の手術をしたという武勇伝も聞きました。半面、文芸浪曲を創作するくらいですから純情で一途な面もあり、〝大阪の太閤さん〟と呼ばれて人に好かれていたようです。

〝芸は身を助ける〟と言いますが、父の場合もそうでした。父をとても気に入ってくれた人のなかに長崎出身のカフェのママがいました。高級会員制クラブのようなカフェで、将校クラスの軍人や著名人が出入りしていた。ここのママに気に入られ、ついにママの養子となって、嫁も迎えております。

カフェのお客のなかに伯爵の鷲尾隆信さんという人がいて、のちに父は伯爵の命名で「小武蔵」から「大宮歌右ェ門」と名を改めております。「大きな鳥居の下で歌うように語りなさい」という励ましでもありました。その伯爵の紹介で、父は発酵学の権威・大阪大学農学部教授の片山庄司先生と出会ったのでした。

ママの旦那が某酒造メーカーの社長だったことから、父は浪曲を続ける一方で、今度は酒を売りまくったそうです。昭和10年代、軍靴の音高まる中、国内は次第に物不足となり、酒も統制品となっていました。酒は売れに売れて、父は大いに儲かったらしい。その余力で、研究費にも事欠いていた発酵学の片山先生に資金援助をすることで、父と片山先生の関係はぐんと深まりました。

勉強したくても、ろくに学校に通えず、農家へ奉公の少年時代を過ごしていた父ですから、たまに訪れる片山先生の大学研究室や自宅の書斎は憧れの的。足繁く通うようになった父に対して片山先生もしだいに心を許し、問わず語りに酵素の話など発酵学の基礎的な話をされるようになった。顕微鏡をのぞかせてもらい、麹菌の花のような美しさに目を丸くした日もあったことでしょう。

やがて父は、戦火のなかで最初の妻を肺結核で亡くします。人を元気にしてくれる酵素について学び始めていた父は、もっと早く酵素について知っていれば妻を死なせることはなかっただろうと、酵素の勉強を一段と深めていきました。片山先生の部屋で聴講生や助手のようにして過ごす時間だけが、妻を失った哀しみと寂しさを紛らすひとときであったのかもしれません。

父は、片山先生の指導のもと、ついに『オリーゼ』を生みだしたのでした。

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第二章 『オリーゼ』が生まれるまで
其の三

 『オリーゼ』という名前は、麹酵母の「アスペルギルス・オリゼーNK菌」にちなむものです。

麹酵母の「アスペルギルス・オリゼーNK菌」は、酵素パワーででんぷんを分解、ブドウ糖に変えることで腸からの栄養分の吸収を速やかにし、腸内で善玉菌を増やして発酵、腸内をキレイにします。

また、みそ、しょうゆ、納豆の中に含まれる納豆菌の仲間「バチルス菌」のすばらしさも見逃してはいませんでした。これらの乳酸菌も病気になりにくい体質にしてくれます。

このほか、片山先生に学んだ消化酵素のアミラーゼやプロテアーゼなど百数種類の麹・酵母・乳酸菌にドクダミなどを加え、安定培養させた健康酵素の精製に成功したのです。ただし、このころは現在のように顆粒状ではなく、粉末でした。

いくらなんでも、いきなり人に飲んでもらうわけにはいきません。最初は、農薬のポリドールを浴びてぐったりしている牛やヤギを元気にする栄養素として使ったようです。元気のない牛やヤギに飲ませると排泄力が高まり、食欲が戻って元気になる。元気になるだけでなくヤギの搾乳率が高まる。当時の搾乳大会で優勝するヤギも出るほどだったそうです。

これに自信を得た父は、改良に改良を加え、ついに誰もが安心して飲める「栄養素オリーゼ」を完成。自分一人で製造し、一人で販売を始めることになりました。父が作った当時のうたい文句は「長生きのもと」でした。

当社は、おかげさまで今年(平成18年)、創業62周年を迎えました。その起点は、大阪時代に創業者である父が『オリーゼ』の発売を始めた昭和19年5月16日です。実際は、もう少し早かったようですが、それはさておき、新発売された『オリーゼ』は、しだいに口コミだけで売れ始めたのです。

そのころの日本は太平洋戦争の真っ最中。本土決戦に備え、食べ物にも事欠く生活ですから、健康食品の『オリーゼ』など、売れるわけがないと思いますよね。ところが食糧不足の時代だからこそ、栄養不足で子どもが死んだり、体力の衰えから病気への抵抗力を失って結核など、さまざまな病気に倒れる人が多かった。だからこそ、麹・酵母・乳酸菌が持つ酵素や作りだす酵素群の力が必要だったんでしょうね。

しかし、昭和20年3月10日、米軍爆撃機B29による東京大空襲につづいて、12日は名古屋、大阪も13日深夜から翌日未明にかけて大空襲を受け、火の海となりました。そして迎えた8月15日の終戦。焼土となった大阪で、父は義理の母から、

「九州に帰って新しい生活を始めなさい。いつまでも妻を亡くしたことを悲しんでいてどうするの。まだ若いのだから再婚して家族をつくらなきゃ」
とすすめられます。

息子には旅立ちをすすめたものの、義理の母は大阪を離れようとしません。

やむをえず父は新たな出発をはかるべく、傷心のなかに『オリーゼ』だけをたずさえ、生まれ故郷の佐賀に戻ってきました。その後、敗戦後の混乱のなか、父は七山村出身の母と結婚。昭和23年、長男の私が生まれたのです。

前列右より2人目父。左端母(昭和24年1月1日)
前列右より2人目父。左端母(昭和24年1月1日)

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第三章 創業者の人生哲学
其の一

 『オリーゼ』を生みだしたのは当社の創業者である私の父、大場八治です。

 大阪時代、浪曲界に飛び込んだ父が「小武蔵」、のち改名して「大宮歌右ェ門」として活躍、文芸浪曲という新しい分野を開いたことはすでにご紹介しました。父が自ら執筆したオリジナルの浪曲台本には『マハトマ・ガンジー伝』や『親鸞聖人伝』などがあります。

 ご存じのように、マハトマ・ガンジー(1869~1948)は、「ブッダ以来の最大のインド人」「インド建国の父」と呼ばれた偉人です。「マハトマ」とは「偉大な魂」という意味。信仰心の篤い家に生まれ、とくに慈愛と優しさに満ちた母親の影響を強く受けました。13歳で結婚。18歳でイギリスに留学し、弁護士の資格を取ったあと、南アフリカに渡ってインド人同胞とともに非暴力・不服従の運動を展開するようになります。しかし、夫婦生活におぼれて父の臨終に間に合わなかったことがひどく彼の良心を苦しめ、幾度かの失敗を繰り返しながら37歳で完全な禁欲生活に入りました。

 ガンジーはイギリスに対して完全なる自治を求めて戦いましたが、それはインドを神の手にゆだねるため。国内では根強い差別カーストと戦い、ヒンズー教徒とイスラム教徒の和解と統一を求めて戦いました。生涯、何十回も投獄され、断食を重ねながら難しい問題の一つ一つに立ち向かっています。こうした非暴力・不服従に徹した彼の生涯は、国内外の人々に実に大きな影響を与えました。ガンジーの「私の愛国心は人類の幸福を含んでいる。したがって私のインドへの奉仕は人類への奉仕である」という言葉は、よく知られています。

 一方、親鸞聖人(1173~1262)は浄土真宗の開祖として知られます。9歳で出家して以来20年間を比叡山で過ごしますが、29歳のとき、比叡の俗化を嫌って山を下り、法然に師事。のち、親鸞は越後に流され、そこで結婚します。在家主義で、肉食妻帯を許した親鸞の教えは〝報恩感謝の念仏〟であり、その信仰においては俗のように見えて、本当はとても純粋なものではなかったか、といわれています。親鸞は90歳まで生き、天寿をまっとうしました。

 父が、いかなるいきさつでガンジーや親鸞に出会ったのか、私は知りません。しかし、一本気で正義感が強く、純朴な青年だった父は、たまたま知った偉人の生き方に強く心を打たれたのでしょう。ガンジーや親鸞に共通するのは、かぎりなく広くて深い人類愛です。貧しき者、子どもや女性をはじめとする弱い立場の者、病める者に対してどこまでも優しく、ともに痛みを分かち合う心の豊かさがあります。父は、偉人伝を台本化することで、願わくば自分もこのように生きたい、と考えたに違いありません。

 このような浪曲師であった父が片山先生と出会い、酵素と出合った。命の営みに不可欠な酵素について学び、酵素を作ることで人の役に立てることを知った。父は残りの人生のすべてを『オリーゼ』に捧げることをためらいませんでした。

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第三章 創業者の人生哲学
其の二

 「お客さまの喜びを私どもの歓びとして」

 言い換えると「人を幸せにすることで自分も幸せになる」ということです。これが創業者の哲学であり、創業以来、変わることのない当社のモットーです。

 『オリーゼ』誕生の地・大阪から、終戦直前に戻ってきた唐津、そしてそのあと虹の松原で知られる浜玉町に工場を移してからも、店名はそのものズバリ、「栄養素オリーゼ製造元」と称しておりました。

 私が生まれた昭和23年、父は私に「善右ェ門」という名前をつけ、店名も同時に「大場善右ェ門商店」と変更しました。つまり赤ん坊のときから私は店の冠であり、代表者になったわけです。善右ェ門とは、いかにも浪曲に出てくるような古っぽい名前ですが、戦前の日本の三大財閥の一つ、鴻池家代々の主の名前にあやかったのだと父は申しておりました。物心ついて以来、ずっと自分の名前が嫌いでしたが、いまはもう慣れました。誰にでもすぐ覚えてもらえるし、いまではむしろ父に感謝しているくらいです。

 私が赤ん坊のころ、2歳のころでしょうか、疫痢で死にかかったことがあります。天井はぐるぐる回り、高熱が出て激しい嘔吐と下痢が続きましたが、父と母がつきっきりで看病してくれたので命を取りとめることができました。

 私が命を取りとめ、その後、元気になるようにとオリーゼを飲ませつづけ、日ごとに元気になっていく様子を見て大いに喜ぶと同時に、あらためて『オリーゼ』のもつ力に目を見張ったのではないでしょうか。

 『オリーゼ』に対する揺るぎない自信と信頼。

 この気持ちが芯にあるからこそ、父は『オリーゼ』で長男の命をつなぎとめた。そして、一人でも多くの人に『オリーゼ』を直接手渡すため、戦後の不便な交通事情をものともせず、全国津々浦々へと販売に出かけたのです。

創業当初のオリーゼ巡業販売、浪曲公演(昭和30年ごろ)
創業当初のオリーゼ巡業販売、浪曲公演(昭和30年ごろ)

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第三章 創業者の人生哲学
其の三

 「お客さまの喜びを私どもの歓びとして」

 父の販売方法は〝昔とった杵柄〟で、自慢の浪曲を聞いてもらい、引きつづき『オリーゼ』の説明をしてお客さまに買っていただく、という巡業販売で、招かれれば全国、どこへでも気軽に出かけて行きました。浪曲だけではなく、漫才や舞踊、手品などの演目もあるという一座を組んでの巡業でした。父は浪曲師であるだけでなく、座元でもあったわけです。

 しかし残された家族は大変です。巡業先から『オリーゼ』を送れと連絡がくると、厳重に梱包した荷物をリヤカーで国鉄(現JR)の駅まで運び、チッキ(鉄道小荷物)で巡業先まで送る。リピートに対しては郵便小包の「郵便販売」。通販の始まりではなかったでしょうか。時には、まだ少年だった私が直接、父の巡業先に届けたこともあります。

 会場は田舎のお寺や公民館です。各地にできはじめた市民会館も会場となりました。西本願寺で公演したこともあります。開演前から大勢のお年寄りが詰めかけ、それこそ立錐の余地もないほど。後日、『オリーゼ』を求めたお客さまから「おかげさまで元気になりました」と涙でにじんだ手紙が届くことはしばしばでした。『オリーゼ』の力を知っている父は、こういう手紙が来るのは当然だと思っていたでしょうが、やはりこれが励みとなって次の巡業地に向かわせられていたのだろうと思います。子ども心に、私もお礼状を読むのが大好きでした。

 『オリーゼ』の産湯につかったも同然の私なので、父の跡を継いだのは自然の成り行きです。高校3年生のとき、何かの本を読んだのだと思いますが、大阪で機械展が開催されることを知り、一人で出かけていって、当時はまだ粉末だった『オリーゼ』を顆粒にする機械を独断で買ってきたことがあります。粉末の『オリーゼ』は、湿度などの自然環境によって変質しました。品質が悪くなるというのではなく、発酵がすすみ過ぎてしまうのです。高校生なりの頭で、品質を安定させることの必要性をつねに考えていたのかもしれません。父は無謀な私の行動を怒りませんでした。

 やがて、巡業先の会場に訪れるお年寄りの姿がめっきり減ってきました。高度経済成長を経て日本が豊かになるにつれ、会場に足を運んで浪曲を聞いたり舞台芸を見るより、もっと手近に娯楽が得られるテレビが登場し、ゲートボールや温泉旅行など、お年寄りの遊びの選択肢が増えてきたからです。私が「そろそろ巡業をやめようか」と言っても、父は聞きません。自分の芸にも『オリーゼ』にも、自信があったからでしょう。

 父自身も50歳のころ、巡業での気苦労が重なり、体調を崩しました。キリで突かれるような、背中じゅうを走る痛みに、父はのたうち回っていましたが、オリーゼを大量に飲み、それ以来、すっかり元気になりました。身をもって体験したわけです。

 頑固な父が現実を受け入れ、きっぱりと巡業をやめたのは10年ほど前のこと。『オリーゼ』の製法は一子相伝で私が受け継ぎ、巡業販売に代わって私は新たに通信販売への挑戦を始めていました。創業者である父の信念と『オリーゼ』をしっかりと受け継ぎ、妻・小百合と二人三脚を始めた私を心配そうに見ていた父ですが、平成17年6月、91歳で他界しました。

 父が最後まで切望していたのは、「もっと多くの方にオリーゼを使っていただきたい」ということです。「きっといい結果が得られるはずだ」と。創業者の生前にはかなえられなかった願いですが、必ずかなえられる日が来ることを私たちは確信しています。

虹の松原のマツ林
虹の松原のマツ林

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第四章 『オリーゼ』のふるさと、
浜玉町と七山村

 当社が位置する佐賀県唐津市浜玉町は、西にひらける玄界灘に沿って美しい虹の松原が縁取る玄海国定公園の中にあります。玄界灘を縁取るのは総延長約6キロ、幅400~600メートルに及ぶ唐津砂丘の中央に広がる100万本のクロマツ林、日本三大松原の一つ「虹の松原」です。樹齢100年を超すマツが茂るこの虹の松原は、当社のすぐ横から唐津市内まで延々とつづいています。浜玉の白砂青松の景観と豊かな自然は、かけがえのない私たちの宝ものです。

 そして、『オリーゼ』のもう一つのふるさとが同七山村にあります。

 浜玉町の東に位置する七山村は、脊振・天山山系の尾根につながる山嶺群に囲まれた山里です。穀地蔵岳(標高893メートル)、浮岳(標高805メートル)をはじめ標高500メートルを超す七つの山が連なり、山あいを流れる玉島川に沿って集落が点在しています。七山村の真ん中を流れ、この浜玉町を経由して玄界灘へと注ぐ玉島川は、神功皇后がアユを釣ったという伝説が残っているほど古くから知られた清流です。

 神功皇后は仲哀天皇の皇后です。仲哀天皇が福岡の香椎宮で亡くなられたあとを継ぎ、新羅へ出兵し凱旋。筑紫で出産したことで有名な皇后ですね。海を越えて新羅に渡る前、戦果を占おうと自分の衣から糸を抜き、それを釣り糸にして玉島川で魚を釣った。釣れた魚が「魚偏に占う」と書く鮎(アユ)でした。玉島川は「鮎」という字の語源となった由緒ある川なのです。神功皇后の故事にならい、明治の初めころまで、この川でのアユ釣りが許されていたのは女性だけだったとか。

 それはさておき、豊かな水量と清らかな流れ、深い山々を縫う幾筋もの支流に見られる数々の滝…。七山村は、大自然のふところに抱かれた桃源郷のような山里、と言っても過言ではありません。

 戦後、大阪から帰郷した父が再婚した女性、私の母は七山村の出身。また私の妻・小百合も七山村生まれです。私自身も生まれたのは母の実家ですから七山村です。平成の大合併で唐津市と合併したから今では唐津市七山ですが、ここでは七山村で通します。

 母の実家は七山村のなかでもひときわ山深い、小さな集落の中にありました。私にとっての曾じいさんは七山村の初代村長で「七山村」の名付け親だったそうです。高い石垣の上に建坪200坪はあろうかという2階建ての大きな家があり、座敷が居間より一段高くなっていたことを覚えています。春休みや夏休みになるとバスに揺られて、母の里に出かけたものです。自然の豊かさはもちろん、優しく迎えてくれるおじいちゃん、おばあちゃんが大好きでした。七山村の人々の明るさや、濃やかな人情も大好きです。

 『オリーゼ』には、麹菌の一種「アスペルギルス・オリゼーNK菌」、納豆菌の仲間「バチルス菌」、消化酵素のアミラーゼやプロテアーゼなどの酵素がギュッと詰まっていることはご紹介しましたが、これらをはじめとする百数種類の麹・酵母・乳酸菌に、自然豊かなこの七山村の自家農園で栽培したキダチアロエ、ドクダミを加え、当社独自の製法で安定培養させ、顆粒状にした醗酵食品なのです。

 現在、七山村には原料を栽培するための自家農園しかなく、その広さも自慢するほどのものではありません。しかし今後、できれば早い時期に、当社の工場を七山村に移したいと考えています。七山工場の青写真も、すでに描いています。新しい工場には、昔ながらの本物の「室(むろ=麹などを入れておいて暖められる、あるいは外気と触れないよう特別の構造をした部屋)」を作りたいのです。必ず実現させます。

山あいを流れる玉島川
山あいを流れる玉島川

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第五章 本物を求めて

 添加物まみれ、合成食品がいっぱいの現代の食生活では、子どもたちの未来はありません。子どもたちに「何を食べたい?」と聞く親が多すぎます。偏食をさせないためにも、「これを食べなさい」と信念をもって食事をさせれば、情緒不安の子どもは落ち着きを取り戻し、優しくなってきます。食事の用意を手伝わせたり、畑の野菜の様子を一緒に見に行くだけで、子どもたちとの会話が生まれます。まず、親が自信をもつことです。

 現代は、健康が心配だからと、総合ビタミン剤やグルコサミン、コエンザイム等々のサプリメントを摂る人が増えています。サプリメントを摂ることが流行になっていると言っても過言ではありません。しかし、その種類は約2万点もある。あまりにも種類が多すぎて、自分に何が必要なのか迷ってしまう。選べないのでたくさんの種類を同時に摂る。2万点ものサプリメントのうち、98%近くが化学的に合成された物質であることはあまり知られていません。コマーシャルのうたい文句や新しい知識に頼りすぎ、日本人が受け継いできた「知恵」を忘れかけているような気がします。

 「知恵」とは、おじいちゃん、おばあちゃんの生活の知恵、ものを粗末にせず、長期保存したり、美味しく食べるための知恵です。私は、日本古来のよき伝統である「発酵」という食の知恵を、教えるというのではなく、受け継ぎ、次の世代に手渡したいと願っています。

 よく、「天然もの、自然もの、本物の食品」といいますが、「本物」であることが当たり前、ふつうのことになってほしい。添加物まみれの現代食生活において、「本物」や「知恵」を復活させようと奮闘している人たちとともに、私たちは創業者の意志を受け継いで、本物をさらに磨き上げて行きます。

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オリーゼ誕生物語
著者 大場 善右ェ門

株式会社オリーゼ本舗 代表取締役社長 大場 善右ェ門
株式会社オリーゼ本舗
代表取締役社長
大場 善右ェ門

 田舎育ちの私がまだ腕白だったころ、学校から帰ると布製のカバンを家に放り込むと、そのまま裸足で外に走り出たものです。鏡山や玉島川、白砂青松の唐津の海では四季折々の遊びがありました。田んぼや畑では収穫間近な旬の野菜や果物に食らいついたものです。口の中いっぱいに、野菜や果物の豊かな味とともに鼻をくすぐる田園と太陽の匂いにうっとりしたものです。擦り傷をなめなめ暮れなずむ空の下、家路を急いだ少年の日々の何と幸せだったことか。

 遊び疲れて戻った家では、円いちゃぶ台に、麦ごはんと手前味噌で作った具だくさんの味噌汁が待っていました。焼き魚、浜で取ったアサリ、しっかり漬けたぬか漬け、買えない豆腐代わりのクジラの白身が入ったおからがふだんのメニューで、卵と甘いものは貴重品。たまにクジラの赤身入りのライスカレーが食卓にのぼると驚喜したものです。貧しかったけれど、みんな元気で、「健康」には全く関心がなく、また「健康」という言葉を使うことさえ知らなかった時代です。

 そして、一億総不健康時代の現代。赤ちゃんのときから動脈硬化、しかも低体温で生まれ、大きくなるにつれてまるで爬虫類のように、ますます冷え性になっていきます。免疫力が低下した子どもたちの多くが、幼いころから生活習慣病で苦しんでいます。医学・科学の進歩に反比例するように難病が増えつづける今こそ、地球が与えてくれた生命を見つめ直さなければ、と思います。

 生命の源である「酵素」は、食べ物の消化・発酵を助けるとともに排せつと体内の浄化に深く関わり、私たちの体を健康に維持してくれているものです。「オリーゼ」誕生から60年を超えたことを機会に、初めて当社の創業者である父のことや「オリーゼ」誕生以前の話を紹介させていただきました。どうぞご笑覧ください。

 本誌発行を期に、これからはまた新たな気持ちで、当社の主力商品である「オリーゼ」を中心に、皆さまの健康づくりに、安心・安全な商品づくりに邁進してまいります。お客さまの喜びを私どもの歓びとして…。

 今後とも、どうぞよろしくお引き立てくださいますようお願いいたします。

平成18年10月吉日

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